Till the morning comes

tsujino2005-06-16

一度、二度、喀痰したあと、堪えきれなくなって、吐いた。丸二日間ろくに食事をとっていないせいで、不快な酸味のする黄味がかった液が、糸をひいて流れた。物悲しい気持ちと、全身を覆う気だるさが酷く、頭に、捻挫に当てた湿布薬が発するような、強烈な熱を感じた。僕はソファに腰掛け、膝に頭を乗せた姿勢で蹲った。しばらくそうしていると、疲弊は相変わらずであったが、思考は明晰さを取り戻し始めた。ただ、動きたくなかった。けど、喉が渇いているらしかった。僕は勢いをつけて立ち上がり、震える手でビニール袋の口を縛り、台所へ行った。そして、ビニール袋を流しに投げ入れると、冷蔵庫から水の入ったペットボトルを取り出して、そのままくわえた。一口目でうがいをして、それから何口か飲んだ。2リットルのペットボトルを持ち上げるのに、両手で支えなければならないほど、腕にも手にも力が入らなかった。膝ががくがくと震えた。思っていたより少ししか飲めなかった。喉に何か詰まっているような異物感と痛みが走った。僕は少し思案してから、そのペットボトルを指に引っ掛けるようにぶら提げたままソファに戻ると、傍らに置き、また横になった。喘息と汗、それと妄念が僕を苛んだ。僕は自分が、何か新しい、とてつもなく冴えた考えを手に入れる、その代償として苦しんでいるように思えた。さらに、それに対して妙な誇りを感じながら、内罰的に、心の中でひたすら謝罪を続けた。そんなことが、一昼夜に渡って続いた。
その合間合間に、間歇的な眠りが訪れたが、しかしそれすらも、例外なく、抽象的ながら陰鬱なイメージの夢を伴う、煩悶であった。
明日菜が死んだような気がした。僕には計り知れない、恐怖と葛藤を抱え込んだまま、誰にも愛されたままで死んでいった。木乃香が独りになった気がした。親友の死と、もう一つ別な形の離別を経て、本当の独りぼっちになった。のどかと夕映が訣別したような気がした。愛や恋や憧憬や若さと名付けられるであろう、純潔な利己心によって、あれほど仲のよかった二人の紐帯は、あっさりと解けた。


目を覚ますと夕刻で、どうやら体はかなり回復していた。胸に張り付いたシャツに不快感と寒気と、それから空腹感を覚え、体の各部位が、それぞれに与えられた役割を果たせていると実感できた。起き上がる時、腰の辺りに鈍い痛みを感じた。見ると、いつ、どのようにして出来たのか分からないが、硬球程の大きさの痣が出来ていた。そんな痣が、他にもいくつかの箇所にあった。
リビングの食卓にあった食パンを2枚、続けざまに食べた。それと、一緒に置かれていたコーラを飲んだ。味気なさやぬるさなど、気にならなかった。それどころか、うまいとさえ感じた。胃袋を満たすと、衣服を着替え、顔を洗った。洗面所の鏡に映った自分の顔、気にくわないのは変わりなかったが、頬が痩せこけ、目は落ち窪み、一瞬別人のように思えた。それが可笑しくて、軽く笑った。それから、コーヒーをセットし、僕はようやく落ち着いて、椅子にかけた。見やると、カーテンの隙間、磨りガラス越しに、曇り空がうかがえた。雨も降っているらしかった。それを知って、僕はふと、2週間程前のことを思い出した。


その日も、こんな天気だった。雨は降っていなかったけれど、今にも降りだしそうな、降っていないことがおかしいぐらいの、曇天だった。僕は千葉の、何と言ったか、名前は忘れたが片田舎の工業地帯で、石油工場の見学をしていた。燃え盛る炉の様子や、足の竦む高さの展望台を案内され、見学自体はそれなりに楽しかったが、人事担当者が僕に興味を持っていないことはその態度から明らかで、僕は不愉快だった。就職活動中の身において、このような感情を抱くのは間違っているかもしれないが、何せ、道程は片道4時間もかかったし、時間は早かったし、何より、これはほとんど形式的な選考であり、君の内定はほとんど決まっているから、どうしても来て欲しいと乞われて、午後からの予定を変更してまで行ったのだから、仕方なかった。
その帰途だった。釈然としない気持ちを引きずって、駅の階段を下りていくと、人気のないプラットホームの隅に、一人の女の子が座っていた。夏服のセーラー服を着て、ぱさついた髪を潮風にたなびかせながら、地べたに直接座り込んでいた。
僕はそれを見て、軽く目眩をおこすぐらいの感銘を受けた。曇り空、人気のないプラットホームの隅、夏服の少女、それらの符合には劇的な、あるいは僕に向けた必然性を感じたし、また、意図しなければ生み出せないと思われるようなそれらの配置は、既視感を覚えるほどだった。その場所から見る、そこに展開される光景は、正に、僕にとって完璧な何かだった。僕は、ほとんど倒れ込むように近くにあった長椅子に掛けた。そして不思議な、というのも、経験を迂回する事無く現実にある光景から普遍的な摂理の一端を掴んだような感動に、打ち震るえた。衝動的に犯罪を犯す人間の心情とはこういうものなのかもしれないとさえ思った。だから僕はそこを動かず、ただ気持ちを落ち着けようだけ考えた。すぐに電車がやってきた。僕は躊躇うことなく乗車口に向かった。扉が閉まってから、僕は彼女を見た。彼女は、相変わらず座り込んだままでいた。反対方向の電車を待っていたのかもしれない。それとも、誰かと待ち合わせをしていたのかもしれない。けど、そんな姿を見て僕は、彼女はずっとこの場所に、こうしているような気がした。今となっては芸術の色合いさえ帯びて回想される構図の、一旦を担うためだけにここにいるような、そうする事が責務であるような、その事に誇りと、同時に苦悩を背負っているような、そして、それを感じ取れる人間に向けてのみ存在しているような、そんな気がした。座席はがらがらだったが、僕は駅を走り抜けるまで、乗降口のあたりから外を眺めていた。通り過ぎる時、窓越しに見た彼女はただ俯いて、何もしていなかった。完璧だった。僕はそこに自己を投影し、それに伴う悲しみを見て取り、何と言ったらいいのか……加虐的な喜びのようなものを感じた。


「とにかく、だ。機を逸した、もうここには居たくない、勿体ない、そんな事柄を理由にめんどくさいんだけど、分るかなぁ? 分かんないよなぁ? 何々のせいでこうなったとか、このせいで何々になったとか、そういった類の、始まりや終わりを一つに束ねられるような話じゃないからなぁ。でもこれ…あー、でも…分かんないだろうなぁ。だいたい、分かると言うやつがいたら、それこそ逆に怪しいもんなぁ。だってそうだろう。こう言ってる俺自身が分かっているかどうか、怪しいもんなんだしさぁ(ここで笑い声。粘着質で大げさな、品のない笑い声)。うん、そうだな。もしも、分ると言うやつがいたら、そいつは大嘘つきだ。気をつけたほうがいい。そうやって自分を欺いていると気付いているだけ、俺はた」
明滅するランプに気付いて再生した留守電から流れてきた、誰なのか検討もつかない中年男性(と思われる)の、興奮を抑えきれないといった感じの声は、ここで途切れた。話の途中であったが、残されたメッセージは1件きりで、続きはなかった。僕にはこれが何なのか、何が言いたいのか、そもそも僕に宛てられたものなのか、さっぱりと意味が分らず、とにかく気持ち悪かった。キモかった。
「ピー。再生を終わります。メッセージは以上です。」


ジャズが聴きたい。何でもいい。拘りなんてない。好みはあるけれど、言葉にするのはとても……いや、そうだな、例えば怜悧で粗暴な演出が格好よかった頃の、雄弁な音とその隙間に潜む辛苦を、聴きたい。
まだ雨が降っている。陰鬱な雨が。ぱさついた、彼女のあの潮風にたなびく髪が、否応なく思い出される。