ハーパースと私

  • (音)実際の所、単にひとつの判断に則しているにすぎない所謂音楽的完成度に関して言えば、ある種の理論に還元できる方法だと考えている。その優劣に関しては何とも言えない、というか理論を理解しながら理解しない、もしくは理解せずに理解している、という状態が個人の内で現実的に不可能である以上、正確には誰にも言えないのがまた厄介なのだろう。無理に言えば「感傷」と呼ばれるような気持ちを促す何かがその正体がなのでは、と漠然と考える俺は勿論理解できない組に属するわけだが、かと言って安易に価値観を転倒する態度は、パンクネスがはっきり意味があった頃ならまだしも今や権威主義的な(?)盲信と変わらないのではと思わざるをえない。単純に、努力や勤勉さが嫌いで生理的にそうしたものが受け入れ難いと切り捨ててしまうのも、それはそれで違和感が残るのだ。
  • (人)精神的に脆弱で何事にも完全に留まれない俺は、少なくとも答えが出ないことを分かっている事柄に対しても本気では停止していれないし、そうした矛盾をこそ愛すでも嫌うでもなく見つめていくべきなのだと思う。だから良く言えば視野を広げる努力、悪く言えば苦行に耐える不毛さをこそ大事にしていきたい。
  • (音)紙ジャケ再発効果か、このところ妙に安く売られている気がするハーパースビザール(リマスター/ボートラ入り/プラケース)のオリジナル4作を、以前持っていたものも含めて買いなおしたのだが、予想通り破綻なく美しく、これは一つのロック/ポップスにおける到達点だと大変感じ入り、不快になった。多分、やってる人達みんな偏執狂的に繊細だったりそれゆえ逆に暴力的だったりするんだろうなと予想でき、にも関らずちゃんとしたものが出来てしまうという結果がまた俺を苛立たせる。
  • (人)だからこそ個人的にはハーパースやA&M系ポップスなんかに学ぶべきものは趣味の範囲を超えて多いような気がする。(それはまた別の人にとっては全く違う何かなのだろう。)そして、何か/誰かを選んだり好きになったりすることが絶対的に出発点であるのだとしたら、そうしたどこにも属さない価値観を色々な人と尊重し合えるようになったらいいなと思ったりもする。