二学期

形ないものだけを、そっと隈どる素敵な言葉、ありがとう。
感謝の気持ちを持とう。誰に対してでなくても、何に対してでなくても、全くの嘘でも構わない。時々そんな風に思い出してみることが重要で、場合によっては(周囲に人がいないのを確認してから)口に出してみるのもいいだろう。
気持ちには形がなくて、落ち込んだりたまには凄く楽しかったり、そんな繰り返しも結局は形なくて、だから思い出でない下らない嘘めいた間欠的な光の明滅−モニターやブラウン管の向こう側に見えるあの世界、断続的な空気の振動−スピーカーやイヤホンの向こう側に聴こえるあの世界だけは、下らない私達にとって、真実だ。
何しろ柔軟な考え方を持とうという考え方自体一つの考え方に過ぎなくて・・・というような事をしたり顔でワザワザ述べ立てるのも、正しいかもしれないけどやっぱり青臭くて、ラ・ノベ(ラ!ノイ?)っぽくて、嫌で・・・単純にまともに割り切れないこともあるし、割り切れることもあるし、そう本気で納得してしまう自分の無力感がまた・・・そんな時こそ忘れてはいけない、感謝の言葉としての、ありがとう。


「また会えたね!」


確かに、一話目という点を顧慮してなお、全体にバタついている印象はあった。そして勿論、時東のOPは最悪だ。つんくプロデュースだとは知らず、何故か皆に申し訳ないという気持ちになりさえした。だいたい、アニソン的進化と別の脈流に美少女ポップスを向けた点がつんくの偉業の第一にくるわけであって、今やその効力は完全に失墜しているとはいえ、今更さに物悲しさを感じてしまうのは事実だ。どうせなら、引き続き小西先生プロデュースにして欲しかった、、、いや、トミフェブ大先生というのも、、、そもそも時東は大嫌いであったが、より強く明確にそう思うようになったマイナス効果以外、俺には残す気配がしない。だって、ああいう形の搾取って一番ムカつきますよ。ぶっ殺したいとは思わないまでも、俺に関係のない不慮の事故とかに巻き込まれて欲しいですよ。
でもまぁ、この際そんな個人的な憎しみははどうでもいいじゃないか! と心機一転ハツラツとした考えになってみる。また君に会えた。今はただそれだけでいい。あの頃と同じ、いつも全力で眩しく生きる、遠い世界の君に、、、


「いつだって、私はtsujino君の傍にいるよ!」